一般人のCM天気図

広告を見れば世の中がだいたーいわかる。

気分は娘の彼氏 父親を刺激するユニバのクリスマスCM

テレビは「なんでも鑑定団」と「チューボですよ」のためにあると言っても過言ではない、普段CMなど見向きもしない父が、あるCMを観て「巧いな〜」と一言。

 

それがこのCM


【ユニバーサル・ワンダー・クリスマス】

 

ユニバーサルスタジオジャパンのクリスマスキャンペーンのCMである。

 

映像としての演出はベタすぎる。

だが、それ以上にコピーが巧い。

「一緒に来てくれるのは これで最後かもしれないな」

そんなこと考えながら子供を見つめたら”一生のお願い商法”と同じく、財布の紐も弛まざるをえない。

 

このCMのターゲットはおそらく30代から40代の父親である。

そしてこれを作ったのも、おそらくターゲットに近い立場の方ではないだろうか。

 

自分の周囲を見ても、父から見る娘というのは本当に不思議な存在らしい。

「大きくなったらパパと結婚したい」と言う娘像を本気で描いているのだなぁと思わされる場面によく遭遇する。

父親にとって娘とは、いつか別れが来る宿命を負わされた、儚い恋人なのだ。

(と、いつまでも父と別れられずに隣でこんな内容の文を書いている自分に赤面)

 

このCMにも、儚い恋人感はギュウギュウ詰めである。

・一度離れてしまう手と手

・もう二人以外の世界は見えないというほどの、娘の笑顔とスローモーション、そして背景のぼかし

・黒髪ロングヘアで白いふわふわコートにスカートというベタな女の子のスタイリング

・上目遣いの娘と見守る父

・「一緒に来てくれるのは これで最後かもしれないな」であおる不安定さ

極めつけは

・「今しか見られない輝きがある 今しか渡せない贈り物がある」

 

ここで私は思った。

これ、”一昔前の”エンゲージリングのCMやないか

 

男にとって結婚前の彼女と思春期前の娘は似ている。

・これからも関係が続いていくと信じて疑わない安心感と幸福感

・自分が彼女を守っていくんだという責任感

・彼女のそばで、彼女の喜ぶ顔を見続けていたい、いや、そうするんだという決心

その思いを爆発させるのが、結婚前の彼女と思春期前の娘に対してだ。

 

子供の物心がつき、お互いを名前で呼ばなくなった夫婦。二人で外出することもなくなり、一気に生活感が出てきて早数年。

そんな父親に、その頃の絶頂期の高揚感を取りもどすのが、娘との関係性というわけだ。

 

その、結婚前の彼女を思い出させる、思春期前の娘と過ごせる一定の期間を、このCMは「最後」「今しか」と謳っている。

 

ただ、「今しか」という一回生を大切にできずに、スマホで動画を撮りまくり複製するような我々にとって、その「今しか」は、あと何回続くのであろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なぜネクラ産業の保険会社が「人生は夢だらけ」を謳うのか

とと姉ちゃんが歌って踊って、なにやら豪勢で忙しいCMが気になっている。

といっても割と前のCMだが。

 

「人生は、夢だらけ」

なにかの娯楽産業の広告かと思えば、なんとネクラ産業の生命保険のCMだった。


高畑充希のCM動画 かんぽ生命『それは人生、わたしの人生篇』90秒Ver.


高畑充希【かんぽ生命 CM】人生は、夢だらけ。「つぎは、何くる?」篇

ネクラ産業ってナニって話だが、これは慶応大学名誉教授の井原哲夫さんの著書「人の心を見抜いて成功する方法」からの言葉である。

ネクラ産業は、将来の心配を解消して、今の安心を手に入れるためにお金を使おう、と促す産業。

つまり、保険業、教育産業、健康産業である。

それに対して、ネアカ産業というのもある。それは、将来なんてわからないんだから、今を楽しむことにお金を使おう、と促す産業である。

観光業や飲食産業などがあげられる。

 

で、ご想像通り、日本人はそのネクラ気質が強いために、時代が変わってもネクラ産業が根強いというワケである。

 

しかし、社会がどんよりした今の時代、そんな脅迫概念みたいなネクラ広告を打ち出したら、たちまち視聴者にチャンネルを変えられてしまう。

そこで深刻になりすぎない、ネクラ広告が生まれた。

「人生は、夢だらけ」。

人生には、お金では買えない”抽象的な”幸せがたくさんある、でも、その幸せをかみ締めるには、やっぱり将来に対しての”具体的な”安心感が必要だよねってことだろう。

 

もしかすると、社会が不穏になればなるほど、こう言ったネクラ産業のCMが明るくなるかもしれない。

このかんぽ生命のCMも、前回の能年玲奈バージョンからいささかパワーアップしているが、それは深読みしすぎだろうか。

 

とにかくこの高畑充希バーションのいいところは、椎名林檎の歌詞である。

♪近寄ればかなしく 離れればたのしくみえてくるのよ

♪あとで振り返れば 酸いも甘いもどっちも愛しいよ

 

こんな偉人が人生を達観したようなセリフを吐かれたら、そこらの保険営業マンの脅し文句よりも、つい信頼してしまう。

 

 

 

 

 

 

だから広告を消したくなる テレビショッピング状態のCM業界 

近頃、テレビがおもしろくなくなったとの声があるが、おもしろいCMも少ない。

なぜか

消費者の想像力を奪っているCMが多すぎるからだ。

 

広告というのは「うちの商品を使えば、こんなにいいことがありますよ」ってことをアピールする場なのだが、CMの面白いところは、映像としての作品という、クリエイティブ要素があることだ。

 

クリエイティブ要素があるから、我々はあれやこれやとそのCM展開に思いを巡らす、だから記憶に残る。そして、広告に、商品に愛着を持つのである。

CMの中に消費者を引き込むようなシーンをクリエイティブできる、それがCMの醍醐味ではないだろうか

 

だからこそCMが商品情報を前面にアピールしなくても、なぜか商品の印象が残るのは”良いCMの要素”の一つだ。

 

そうすると、CMにとって、あからさまに「うちの商品を使えば、こんなにいいことがありますよ」とキャストやナレーターに言わせるのは、ヤボだ。

しかも今のつまらないCMにいたっては「うちの商品がいい理由は〜」なんて、きいてもないのに、テレビショッピングやチラシ広告みたいに、商品情報を貴重な数秒間に詰め込もうとする。

なんだか押し付けがましい。

 

独自製法とか「〇〇成分」や「〇〇エキス」が入ってるとか言われても、商品の裏に書かれてあるようなことを言われても、正直ピンとこない。

 

いまや、そんなCMが薬だけでなく、化粧品やら洗剤、ドリンク、食料品もそうなのだから、右から左に受け流される、記憶に残らないCMばかり。

 

CMは商品広告の視聴を強制させているんだから、視聴者をたのしませるような気遣いがないと、テレビショッピングみたいにボタンひとつで飛ばされてしまうよ。

YoutubeCMなら尚更だ。

 

しかし「なぜその商品が良いか」とわざわざ説明されないといけなくなったのは、我々の想像力が乏しくなったからであろうか。

 

もしかすると、CMも、ブログで数を稼ぐように「この商品が優れている3つの理由」とナレーターが喋りだす日も近いかもしれない。

 

「25才の今日からあんたは女の子じゃない」までもが放送中止のCMになった今の時代

ついスマホから顔を上げてテレビ画面に目をやってしまう、ドキっとするCMが久々に流れた。

と思った束の間、「女性差別」「セクハラ」とネットで批判が相次ぎ、放送禁止となるなんて、トホホの結果である。

同情するよ、資生堂さん。

 


資生堂「インテグレート」 セクハラCM映像 25歳は女じゃない?

 

まず、この25才を境目に「今日からあんたは女の子じゃない」という言葉のインパクトが強すぎた。

資生堂のインテグレートで「”かわいい”をアップデートし続ける、いつまでも”かわいい大人”でいよう」というメッセージが伝わらなかったのは、それだけ世の女性が”かわいい”に固執し、現実の「いい大人なんだから」なんて言葉に敏感になっているということだろう。

 

しかも「”かわいい”でいつづける女=いい女」を訴える資生堂が、そのナイーブなお年頃に耳が痛い現実を見事に突きつけてしまったのだから、エラいこっちゃなのだ。

数秒後にポジティブな言葉で励まされたって、この怒りは収まらない。

あーコワイコワイ。

 

が、彼女たちをこんなにも攻撃的にしてしまったのは、おそらく21世紀に入ってからの話なのだ。

1999年の金鳥サッサのCMでは、横一列に並んだ女性の前を、少年が「金鳥サッサのおねえちゃん」と「金鳥サッサのおばさん」と、順に指差しながら移動するという現代ではびっくり仰天なCMがあった。

「おねえちゃん」と言われた女性の嬉しそうな顔、「おばさん」と言われた女性のムッとした顔がそこにあった。

 

90年代の黒ギャルが渋谷の街を埋め尽くした時代には、「ハタチ超えたらオバサンじゃ〜ん♪」と笑う少女がテレビでも漫画でもたくさんいた。

 

それがいつの間にか、若づくりに励む世代が権力を持ち、メディアを抑制してしまったのだからタイしたもんである。

美魔女とかトモダチ親子とか、上には上がいるから、20代だってまだまだ私はイケてると妙な自信を持ってしまう。

 

問題なのは、見た目に合わせて中身も若づくりに励むようになった彼女達と「年相応」の対応が求められる日本社会の間にギャップが生まれたことだろう。

 

別に若づくりをしたい人は、どんどん資生堂のインテグレートで若づくりしてもらって結構なのだが、外見だけでなく、中身まで若づくりしちゃあ、なんだか余計「うすっぺらく」なっちゃうよということである。

 

金鳥の時は、ただムッとするだけで笑い話になったお茶の間の出来事が、今は放送中止のデモになるなんて。

かといって「大人げないね」なんて言っても怒られるし。

あーコワイコワイ

 

一つ提案なんだけど、アンチエイジング反対派のキョンキョンを起用して、「年相応の美を追求するCM」を作るのはどうかな。

それも抗議の対象になるんだったら、いよいよ世も末だね。

 

 

 

 

 

テレビなんてほとんどやらせ番組だ だからこそ面白い

♪ヒマラヤほどーの 消しゴムひとーつ 楽しいことを、たくさんしたーい 

お世辞にもうまいとはいえない歌を無邪気に歌う宮崎あおいの姿を今でも思い出す人は少なくないだろう。

「あした なに着て、生きていく?」のコピーが秀逸な、もう今から6年前のearth music&ecologyのCMだ。

 

「あのね、宮崎あおいはわざと下手に歌わされてて、ちょっと足元がおぼつかない様子で、飛んできたボールを取り損ねるように指示されてるんだよ」

なんでって?

「”かわいい”宮崎あおいが着ているこの服が”かわいい”と世間の皆様に思ってもらい、買ってもらうために決まってるでしょ」

 

なんていうある大学教授の言葉に私の眠気も吹き飛ばされた。

 

今となってはそりゃーそーだろという話なんだが、大学1年の私は、この初回授業で教授が発した言葉にとにかく衝撃を受けたのだ。

 

それまでの私は、テレビに出てくる宮崎あおいは、ちょっと不器用で純粋な女の子だと思っていた。今もそうなら石原さとみは、あざとくて賢い小悪魔だと思っていただろうし、菜々緒を見るだけで、誰かを貶めようと企んでるんではないか、と勘ぐっていただろう。

あれはメディアが演出した彼女たちの仮の姿だ、なんてとちっとも認識せずにメディアを見たままに受け取り知ったかぶっていた私が、その授業で知ったことは、

 

”人気者はいつだってやらされている”

ということ。

 

広告の話に戻そう

 

”かわいい”宮崎あおいちゃんはもちろん、彼女に何をさせるかを必死で考えた広告の裏に潜む人たちのおかげで、earth music&ecologyの売り上げはうなぎ登り。

現在でも多くの若者に知られるアパレルブランドになった。

 

(私的)衝撃発言を発した後、恩師は、「なぜ消費者は、この宮崎あおいを”かわいい”と思わされたのか」という要素をつらつらと述べ始めた。

 

「まず、宮崎あおいはキティーちゃんとか、ゆるキャラに似てる。それは顔のパーツが・・・」

「欧米人と比べても明らかだが、日本男児は守りたくなるような女の子が好きで・・・」

「かわいさの中に、媚びないボーイッシュさを感じさせ、女性好感度を得るために・・・」

 

結果、earth music&echologyのCMには”かわいい”宮崎あおい像が意図的に見事に作り上げられていた。

 


宮崎あおい CM earth music&ecology 野球篇

CMは面白い。作り手が、消費者を動かすために、あの手この手と仕掛けてくる。

時の人や楽曲を起用する、「そうなんだよなぁ」と共感させるようなシーンやフレーズを取り入れ、時には消費者の気を引くために世間をチクリと皮肉ってみたりもする。

 

だからこそCMを見ると、その企業の意図と世の中の風潮が垣間見える。

 

そんなことに40年以上も前に目をつけ、広告批評を執筆してきた人がいる。

天野祐吉さんだ。

彼の発言には、メディアから捉えられる世の中を批評しながら、我々が忘れてはいけないと思わされるような言葉がヒシヒシと伝わる。

 

アナログな考えを持つ私は、天野さんの綴ってきた言葉を、ただただ大切に、未来に持っていきたい。

 

 

 

 

 

 

広告論講義

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天野祐吉対話集─さよなら広告 さよならニッポン

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